三月の那須塩原駅のホームは、まだ冷えます。五十三歳の方が、ボストンバッグ一つで新幹線を降りられました。二十六年続いたご結婚が、前の年の秋に終わったばかりでした。お一人の旅は、学生時代以来、三十年ぶりだったそうです。
これはその方の三日間の、小さな記録です。出会いを探すための旅ではありません。自分を、一度ちゃんと一人の場所に置いてみる旅でした。
初日:何もしない、という練習
那須のホテルに着かれたのは午後二時でした。チェックインをして、ロビーの大きな窓から茶臼岳を見て、部屋でお茶を入れて、三十分何もされなかったそうです。
「何かをしなければいけない、と思っていた自分に気づきました」と、後にご本人が話してくださいました。結婚生活の長い年月、彼女はいつも誰かのために動いていました。朝食を作り、洗濯をし、子供を送り出し、夫の予定を確認し。一人の部屋で、誰のためでもない時間を三十分過ごすことが、最初の「練習」になりました。
夕方、近くの温泉に入られました。お風呂の中で、涙が出てきたそうです。悲しみではなく、安堵の涙でした。
二日目:誰とも話さない、贅沢
朝、ホテルの朝食ブッフェで、窓際の一人席に座られました。最初は気まずさがあったそうです。周りはご夫婦連れや家族連ればかり。「私だけ一人」という感覚は、離婚直後の方にとって、特に痛みを伴うものです。
しかし、コーヒーを二杯ゆっくり飲むうちに、気まずさは消えていきました。代わりに出てきたのは、「誰とも話さなくていい」という静かな贅沢でした。夫との朝食で、ずっと何かを話さなければと思っていた年月が、初めて終わりを告げた瞬間でした。
その日はレンタカーで、那須平成の森を歩かれました。まだ雪が残る道を、三時間。すれ違うのは、同じように一人の方が多かったそうです。軽い会釈だけを交わして、すれ違う。言葉のない連帯のような感覚が、そこにはありました。
夜の、一人の食卓
二日目の夜は、ホテルのダイニングではなく、街中の小さな郷土料理店に行かれました。カウンター席のみの店で、ご主人と奥様の二人で切り盛りされていました。
「お一人様、大歓迎ですよ」。そう言われたときに、涙が出そうになったとおっしゃっていました。誰にも説明されず、ただ一人の客として扱ってもらえることが、この時期の方にはとても大事な瞬間です。
地酒を一杯、刺身の盛り合わせ、そして牛しぐれ煮。食べている間、ずっと一人で、けれど孤独ではなかった。離婚直後の食卓と、一人旅の食卓は、不思議なほど違うのだとおっしゃいました。
三日目:何も決めない、という決意
帰りの日、那須のロープウェイには乗らず、ホテルの近くの小さな教会に立ち寄られました。信仰心からではなく、ただ静かな場所を求めて。
ベンチに座り、ノートを開かれました。「これからどうするか」を書き出そうとして、手が止まりました。代わりに書かれたのは、「しばらくは何も決めない」という一行でした。
離婚直後の方が一番避けるべきなのは、急いで次の決断をすることだと思います。新しい住まい、新しい仕事、新しい関係。すべてを半年以内に決めようとすると、必ずどこかで揺り戻しが来ます。那須の小さな教会で、彼女は「決めない」という決意をされました。
一人旅のための、小さな五つの準備
- 行き先は、人が多すぎない場所を選ぶ。観光地の主役になっている場所より、少し外れた町の方が、一人で歩きやすいものです。
- 二泊三日を基本にする。一泊は短すぎて心が動く前に帰ってきてしまいます。三泊以上だと、後半に疲れが出ます。
- スマートフォンを使う時間を減らす。ホテルに着いたら、最初の三十分だけは誰からの連絡も見ない。これが、旅の時間を取り戻すコツです。
- 夜の食事は、一人で入りやすい店を事前に探しておく。カウンター席のある小さな店が理想的です。
- ノートを一冊持っていく。スマートフォンではなく、紙に書く。書いた言葉の重みが違います。
旅から戻った日
帰りの新幹線の中で、その方は不思議と軽くなった自分に気づかれました。離婚の痛みが消えたわけではありません。ただ、痛みを持ったまま、自分の人生を一人で歩ける、という感覚が戻ってきたのです。
一人旅は、新しい出会いの前段階ではありません。ご自身との、静かな再会の時間です。誰かと歩き出す前に、まずは一人で、三日間だけでも歩いてみてください。
那須でなくても構いません。軽井沢でも、鎌倉でも、金沢でも。ご自身がふと惹かれた場所であれば、それが正解です。