最初の結婚は、春の疾風のような季節でした。出会って半年で同棲、一年で結婚、二年で第一子。そんな速度が普通だった方も多いでしょう。
二度目の関係は、全く違うリズムです。出会って半年後にやっと週末を一緒に過ごす、一年たって初めてお互いのお子さまに紹介する、二年目にようやく将来の同居を話し始める。これは物足りなさではありません。むしろ、五十代、六十代の愛の、一番贅沢な形です。
なぜ、二度目はゆっくりになるのか
- 守るものが増えている。お子さま、お孫さま、ご自宅、貯蓄、前のご家族との関係。全てを大切にしながら進むと、自然と速度は落ちます。
- 失敗の記憶が残っている。前のご結婚で痛みを経験された方は、同じ失敗をしないように、一歩ずつ確かめられます。
- 体力と気力の配分が変わっている。若い頃のように「全てを恋愛に」とはいきません。趣味、仕事、ご家族への時間配分が必要です。
- 「残りの時間」の見方が変わる。逆説的ですが、残された時間を意識するほど、一つ一つを丁寧に味わいたくなります。
最初の三ヶ月は、ほぼ「知り合い」でいい
五十代以降で新しい方と出会われたとき、最初の三ヶ月は、お互いを「知り合い」として扱うくらいでちょうどよいのです。月に二度のお茶、メールのやりとりは週に一度か二度。それ以上を急ぐと、お互いが息切れされます。
鎌倉でお見合いをされた六十歳の男性は、「最初の三ヶ月は、週末のカフェでのお茶だけでした」とおっしゃいました。「若い頃なら物足りないと感じたでしょうが、今はこの距離がちょうどいいんです」。
この時期は、大きな決断を避ける時期です。旅行に行かない、お互いの家に泊まらない、お子さまに紹介しない。これらは三ヶ月以降のお話です。
半年目:小さな日常の共有
半年ほどたつと、お二人の間に自然なリズムが生まれてきます。この時期に、週末の半日を一緒に過ごされる、近場の日帰り旅に出られる、料理を作ってお相手の家で食べる、といった「小さな日常」が始まります。
ここで、若い頃との違いが明確になります。二十代の半年目は、「もう住みたい」と感じる時期ですが、五十代の半年目は、「自分の家に帰るのも好きだ」と感じる時期です。この感覚を、お互いが共有できているかどうかが、その後の関係の質を決めます。
一年目:家族という問題に、静かに触れる
一年ほどたった頃、ようやく「お互いの成人したお子さまに会う」段階が訪れます。これが早すぎると、多くの場合、関係が崩れます。遅すぎると、二年目以降の進展が止まります。
お子さまとの初対面は、短く、中立の場所で、期待を乗せずに設計されてください。鎌倉や軽井沢のレストラン、京都の料亭、横浜のホテルラウンジ。静かに食事を共にし、一時間から一時間半で切り上げる。これが最初の理想です。
那須で一年続けられた関係のお二人は、一年目の記念日に、お互いのお子さまとそれぞれ別々に会われました。両家揃っての食事会は、二年目の春にされたそうです。一つ一つの段階を、焦らずに踏まれたのです。
二年目:将来の具体的な話
二年目に入って初めて、同居、入籍、家の整理、相続、といった具体的な話が適切になります。それまでは、「いずれね」という抽象的な話で十分です。
この時期に話されるべき具体的な項目は、前の記事でもご紹介した通りです。それぞれのご自宅の扱い、お子さまとの公平、遺言書の準備、お互いの健康管理。これらを二年目の一年間かけて、少しずつ話し合われていくのが、五十代以降のリズムです。
ゆっくりの、贅沢
「こんなにゆっくりでいいのだろうか」と、最初は不安になられる方が多いです。周囲の友人が「若くないのだから、さっさと決めればいいのに」と急かしてこられることもあります。
けれど、五十代、六十代のゆっくりは、若い頃のゆっくりとは質が違います。これは「決められない」のではなく、「一つ一つをちゃんと味わっている」時間です。同じ一年でも、若い頃の一年より、ずっと多くの細部を覚えていられます。
六十三歳で再婚された女性が、こうおっしゃいました。「一度目の結婚は、気がついたら十年たっていました。二度目は、最初の一年を、今でも月ごとに思い出せるんです」。
ゆっくりの中での、喜び
ゆっくりした関係には、独特の小さな喜びがあります。二ヶ月ぶりに会うときの、ちょっとした気恥ずかしさ。電話の最後の「おやすみなさい」。お互いの家に泊まらない夜の、短い電話。これらは、若い頃の関係では気づかなかった喜びの層です。
毎日一緒にいる関係が必ずしも濃いわけではありません。月に二度会う関係の方が、お互いを深く見ていることもあるのです。
最後に、心に置いておきたい一言
二度目の関係がゆっくりであることを、どうか、恥じないでください。急がないことは、あなたの情熱の不足ではなく、人生経験の豊かさの現れです。
秋の長い午後のような関係を、大切に育ててください。春の疾風は、もう一度経験しなくてよいのです。