絹江さんは五十八歳です。五年前に、二十八年連れ添ったご主人を病気で亡くされました。最初の二年は、文字通り何も読めなかったそうです。それまで週に二冊は読んでいた方が、本を手に取っても目が文字の上を滑るだけ。「言葉の砂漠」と、ご本人は呼ばれていました。
三年目の春、京都・北白川の古書店が主催する小さな朗読会のチラシが、郵便受けに入っていました。かつての勤務先の先輩が送ってくれたものでした。「無理しないで、でも一度だけ」と、手書きの一言が添えてありました。
朗読会の、隣の席
京都の三月はまだ冷えます。絹江さんはご主人の形見のマフラーを持って、古書店の二階に上がりました。椅子は十五ほど。朗読されたのは、遠藤周作の短編でした。
隣に座られたのは、六十代前半と思われる男性でした。絹江さんが文庫本に栞を挟まれたとき、その栞が珍しい和紙だったそうで、男性が小さく「きれいですね」とおっしゃいました。絹江さんは少し驚かれました。三年ぶりに、知らない方から話しかけられたからです。
朗読が終わり、古書店主が用意されたほうじ茶を飲みながら、数人で感想を交わしました。男性は柊司さんといい、ご自身も数年前に奥様を亡くされ、京都市内の中学校で国語を長く教えられた方でした。会話は本の話、朗読者の声の抑揚の話、そして遠藤周作の信仰と孤独の話へと、ゆっくり広がりました。
急がない、という選択
絹江さんと柊司さんは、その日のうちに連絡先を交換されませんでした。次の朗読会が二ヶ月後にあることだけを、共通の予定として覚えて帰られたのです。
「急ぐ理由がどこにもなかったんです」と絹江さんは後に語られました。「亡くなった夫のことも、柊司さんの奥様のことも、お互いに抱えていることがわかっていたから」。
二ヶ月後の朗読会で、お二人はまた隣の席になりました。偶然でも必然でもなく、ただ同じ会にまた来た、というだけのことでした。その日、終わってから、古書店主の紹介という形で初めて連絡先を交換されました。
手紙のような、メールの往復
連絡はメールで始まりました。週に一通、多くても二通。返信は翌日か、翌々日。短くなく、長くもない。「絹江さん、お元気ですか」から始まる、かつての手紙のような文章でした。
柊司さんは、ご自身の孤独を慌てて差し出されたりはしませんでした。絹江さんも、ご主人の話を無理に避けたりはされませんでした。二人とも、それぞれの人生に敬意を払う方だったのです。
三ヶ月目に、岡崎で展覧会を一緒に見に行かれました。美術館の帰り、岡崎公園のベンチで、柊司さんがぽつりとおっしゃったそうです。「妻は、私が先に逝くものだと思っていたんです」。絹江さんは、うなずいて、何も言い足しませんでした。
お子さまたちに、どう伝えたか
絹江さんには成人したお嬢様が一人いらっしゃいます。東京でお仕事をされている方です。柊司さんとの関係が静かに深まってから、絹江さんはお嬢様に電話で伝えられました。
「お父さんを忘れるのではないの。ただ、京都で一人で生きていく中で、一緒に本を読める方が現れたのよ」。お嬢様は十秒ほど黙られたあと、「お母さん、よかった」とおっしゃったそうです。
柊司さんのご長男はもう少し時間がかかりました。一年後に初めてお三方で食事をされたとき、ご長男は最初堅い表情だったそうですが、絹江さんがご長男の亡きお母様の思い出を自然に尋ねられたことで、少しずつ打ち解けられました。
一緒に暮らすか、別々に暮らすか
現在、絹江さんと柊司さんは、結婚もせず、同居もされていません。絹江さんは北白川のご自宅、柊司さんは市内の別の地区にお住まいです。週末に会い、月に一度は鎌倉や金沢に小旅行に出られます。
「このままでいい、という選択があってもいいと知りました」と絹江さんはおっしゃいます。形を決めることより、二人の時間が穏やかであることの方が、ずっと大事だったのです。
絹江さんからの、短い言葉
最後に、絹江さんがインタビューで口にされた一言を、そのままお伝えします。
「もう一度誰かと歩けるなんて、私は思っていませんでした。でも、無理に笑わなくていい相手と出会うと、世界はまた少し色を取り戻すのですね」。
急がず、期待せず、でも扉は閉めない。絹江さんの物語は、特別な勇気の話ではなく、穏やかな時間の話なのかもしれません。